いつの時代にもありがたい『助け舟』の文化

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「打合せで意見が対立し、気まずい雰囲気に包まれたとき、上司が絶妙の冗談で助け舟を出してくれた」などというときの『助け舟』という言葉は、いつから使われているのでしょう。

時代は江戸時代にさかのぼります。もともと江戸は土地が低く、あちこちに海が入り込んだり、沼があったりする湿地帯で、そのうえ大雨が降るたびに河川があふれ、洪水が関東平野を縦横無尽に暴れまわるため、嵐のたびに水害が起こる町でした。そこで人命救助に活躍したのが、助け舟だったのです。

1日に3500人以上の命を救う

1590年の「小田原征伐」に参加し、北条氏を滅ぼすのに貢献した徳川家康は、豊臣秀吉から江戸への領地替えを命じられます。

当時の江戸は沼地ばかりの湿地帯で、東海地方を中心に5国を支配していた家康にとって、さぞ不本意なことだったでしょう。

しかし家康は関東の地形を分析させ、西の荒川を、さらに西を流れる入間川に合流させ、次いで東の利根川を、さらに東を流れる渡良瀬川、鬼怒川に合流させる河川大改修で、江戸の中心を洪水から守り、繁栄できる町の条件を整えたのです。

しかしこの大改修で洪水が起こる地域を限定した結果、町によっては毎年被害をこうむることになりました。

江戸府内では本所・深川・浅草・下谷などの地域です。

これらの地域には、幕府による救済が行われました。その筆頭として最重要とされたのが助け舟で、被災した人の命を救う手段の中心とされました。

天明6年(1786年)の大水害では、1日目だけで100槽ほどの助け舟が活躍し、実に3500人余もの人命を救っています。

それに炊き出し、御救い小屋、御救い米がセットで、町奉行所が老中の許可を取ることで実施されました。

そのような「お上」の努力もあり、18世紀初頭に江戸の人口は100万人を超え、パリやロンドンより大きな都市になったと推定されています。

現代の「助け舟」は火災保険

今でも大水害となれば、消防や警察、自衛隊などの救助艇が活躍しますが、江戸時代に比べると、その役割は小さくなっています。

現代の「助け舟」は火災保険といえるのかもしれません。

火災だけでなく、風水害や落雷も対象とする火災保険は、屋根の雨漏りや雨どいの破損など、小規模な損害の補償にも役立ちます。

火災保険は、自然災害や事故が原因で起こった住宅損害の多くを補償する、住まいの保険なのです。

※火災保険の補償範囲は保険会社や保険のタイプによって異なります。